今日は、とある機会がありまして、プロのカメラマンがナマハゲを撮影する現場に立ち会う…というかお手伝いしてきました。

雰囲気のある場所を探して、陽光の下、ナマハゲの衣装を着た方にポーズを取ってもらって、プロのカメラマンが撮影する…という感じ。

もう、いかにもナマハゲっていう感じの写真をもの凄い枚数撮影されてました。
ご本人も満足そうで、たぶん凄くいい写真作品に仕上がるんじゃないかと思います。

さて、そんな現場を見ながらも、今のナマハゲは、ナマハゲという理路整然とした、それなりに説明可能な存在なんだ…というコトを何となく思ってたりしてました。

説明可能なナマハゲ


ナマハゲとは、これこれ、こーゆーモノで、こーゆー原理に基づいて行動する存在で、厄をはらい、福をもたらす神様で、教育や、観光分野で活躍されているありがたい存在…というように、きちんと説明される。

これって可笑しい話です。

こんな存在、ちっとも怖くない。

ナマハゲが怖い存在っていうのは、別に子供だけの話じゃないんです。

確かに「悪い子はいねが~」って叫ぶのは子供に対してですが、その声は大人の耳にも届いてるわけですから。

子供と一緒に、大人に対しての戒めがあってこそ、厄払いや招福の意味合いも出ようものですが、こんなに怖くもない、威厳もない、取り扱いやすい相手では、何のありがたみもない気がします。

ナマハゲは、子供に対しても、大人に対しても、おっかない、恐怖の、畏怖の、対象でなくては意味がない。

何をするか分からない


最も恐怖をもたらす相手って何でしょう。

「何をするか分からない、理解することが出来ない、何が何だか分からない」

こんな感じじゃないですかね。

こうした相手に対しては、どのような事柄を責められるかも、何を仕掛けてくるかも予想できません。
事前に対応を想定することもできませんし、すべてがその場でじっと堪え忍ぶしかない。

やり過ごすしかない。

こうした存在こそが、恐怖の、畏怖の、対象になりうる。

太古のナマハゲは、おそらくそうした存在に起源を発したものだったんじゃないか。

そう思えます。

力を失うナマハゲ


ナマハゲを児童虐待ではないか…という問いはよく聞こえてきます。
それに対して、躾であるとか、親の愛情表現の場であるとか、きちんとした説明が、いろいろ行われています。

ですが、そうした理路整然とした説明は、ナマハゲから多くの力を奪ってしまったようです。

説明すれば、説明するほど、自ら発した言葉に縛られていく。

太古の昔に生み出されたナマハゲにとって、自らを縛る言葉がどれほどの枷になって、どれだけの力を失わせたか。

余所も含めて、信仰の中には、恐怖と畏怖はつきものですが、こうしたモノが軒並み衰退していってる理由は、おそらく同じトコロにあるんじゃないかと考えられます。

はてさて、一切の説明を拒み、余所からの声を聞き流し、そういう道を選んでいれば、今のナマハゲはどんな姿になっていたか…ちょっと見てみたかった気はします。
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