学生の頃、こんな勉強して、将来何の役に立つの?と思ったことのない人はほぼいないはず。
特に数学や科学。
こんな面倒で、ややこしいこと、一般社会で何の役にたつんだろうか…と。

四則計算程度ができて、お金が数えられるならそれで間に合うじゃん…と。

結果から言えば、数学も科学もおおいに役にたつ。

それは自分がIT系の仕事をしてるから…という訳ではなくて。
普段の生活の中で、十分すぎるぐらい役に立っている。

いや、ホントに。

数学、科学を学ぶメリット


数学や科学に学ぶメリットのひとつは、数字の扱いに長けるコト。
正確には、数字の持つ意味を判断する力が身につくこと。

一般社会を生きていくにあたって、状況を判断して、自分で決定を下さないといけない場面というのは多々ある。

多くの場合は、その状況は数字をもって表される。
確率だったり、金額だったり、年数だったり、その形は様々。

その時、数学や科学に疎い人には、その数字の意味の把握は非常に厄介な作業になる。

例えば、その数字が0と1…つまりは「答え」として示されれば判断は容易だ。
ところが大抵の場合、自分の人生に関わる数字は小数で示される。
0.3とか0.7とか、いろいろ。

小数で示される数字は「答え」ではないので、自分で解析して、分析して、自ら判断をしないといけない。

数学や科学の世界では、そうした数字の取り扱い方には一定のメソッドがあることを学ぶし、結果として出てきても意味を成さない数字が存在することも学ぶ。

数字を額面通りに見る…なんてことは絶対にしない。

そうして数字を判断材料として揃える作業を日常的に行って、数字そのものではなくて、そこから何が導き出されるかを考える訓練を幾度も行う。

こうした学習をすることで、数字の意味を自ら判断する力が身につく。
これが最大のメリットと言える。

食べるべきか否か


そうした訓練を行ってこなかった人、0と1以外の数字に日常的に触れてこなかった人の場合は、小数で数字を出されても判断できない。

例えば、目の前に一つの食料があったとする。

これを食べるべきか否か…これをどう判断するか。

製造日や賞味期限が記載されていれば、その経過から判断できるかもしれない。
では賞味期限から2日過ぎてたらどうか?
4日過ぎてたら?
匂いや色、あと味をみて、大きく変化してなければ大丈夫なんじゃないか。

生産国はどうだろう。
遠くの国で作った果物だったら、もしかしたら保存用の薬品が使われるかもしれない。
まぁ、洗って皮をむいて食べれば、心配することは無い。
ほんの微量残るかもしれないが、そのぐらいなら、まず無害だろう。

南東北産だったらどうか。
今だと、放射性物質に過敏に反応する人もいるだろう。
事故から時間もたち、今の検査体制なら、基準を上回る食品が出回る可能性はまずない。
そもそも、自然界にはもともと放射線が飛び回ってるのが通常で、問題になるのはその量だ。

今現在の科学における、放射線に対する見地から、まず問題はないと考えるのが妥当だろう。

というわけで食べよう!
美味そうだ!

数量の意味を判断する


とまぁ、そんな判断を下したとする。

これらは、それぞれ製造日からの経過時間、残留農薬量、放射線量というそれぞれの数量を自分なりに見積もって、この程度なら問題ないと、自分で判断したから、食べることができる。

ところが、それぞれの数量を見積もることができず、また、その数量が意味することを理解できなければ、食べてよいかどうか判断することが出来ない。

そうした場合、どうするかと言えば、たいていはネットを検索するだろう。

でもって、この食料を食べてよいかどうかの答え探し始めるはず。
数量の見積もり方や、数量の基準なんかは、すっ飛ばして。
0か1かの答えを探し求める。

「賞味期限を過ぎたら危険、自己責任」「残留農薬は体に悪い」「放射線は危険」という情報を見かけたら、もう目の前の食料を食べるなんて怖くてできない。

一番大事な、数量はどうなのか…というコトには目もくれず。

本当は、ほぼ危険性も存在しないものであったとしても、それを裏付ける数量の意味を理解できない以上は、仕方がない。
ほんの僅かでも危険があれば食べない…という判断をせざるおえない。

それも仕方なし。

0か1でしか数量を判断できない人の場合は、このような判断しかできないが、それはそれでその人の判断なんだから、しょうがない。

次回からは、買ってくる前に産地を確認して、賞味期限前に食べるしかない。

誰かの判断を受け入れる怖さ


実際のところ、怖いのはこの先だ。
食料一つの判断なんて、別にたいした問題ではない。

世の中、食料以上に難しい判断を迫られる場面は数限りない。
そのたびに、状況を示す数字が様々に提示される。

おそらく、数字を判断できない人は、その度に0か1の答えを求めていく。

そして怖いのは、現代社会では、本来誰からも提示されないはずのない、0か1の答えを声高に主張するモノが実在していること。

ネットで検索すると、本当は白黒つけられない問題に際して、答えである0か1を大声でまくし立ててる人がいる。
たいした根拠でもないけど、そもそも0か1かしか欲しくない人にとっては、それがどんなにトンデモない根拠であっても関係ない。

それに飛びついてしまいう。
自分で判断するんではなくて。
誰かの判断の下につこうとする。
その判断の下で安心しようとする。

とはいえ、そもそも自分で判断をしているわけではないので、心の底から安心なんて実際はできるわけはなくて。

今後、際限ない不安の影に怯えながら、それでも心の安寧を他人任せにする以上の術は持ってない以上、もうどうしようもなくなる。

ずっと不安に付きまとわれる。

安心は自分で判断するもの


とまぁ、長々と書きましたが、安心というのは、自ら判断するものであって、他人に与えてもらうものじゃない…ってことです。

安心を手に入れるためにも、現代社会では数学や科学といった、数字を扱うことに慣れてリテラシーをあげておかないといけない…ってコトです。

幸い、これらのリテラシーは、義務教育レベル、高等学校レベルで十分に手に入れられる程度のことなので、子供さんがいる家では、よく勉強するように言っておいたほうがいいかも。

数字ってのは、自分で判断して意味づけるものだ…って、それだけ分かってるだけで人生の安心度はぜんぜん違いますからね。
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