昨日から、小屋から、部屋から、押し入れから、庭先まで、片づけ三昧の2日間。
網戸の片づけも終わり、布団の類も引っ張り出し、よーやく一段落。
ちょーっと腰にきてる感じなので、もう残りの連休はゆっくりと休みましょう。
もう今期は乗れないであろう自転車2台を部屋に運び込み、小屋にローラー台のスペースを確保。
この2台も、いろいろ手を入れる必要もあるので、冬の間にじっくりやっちゃいましょう。
片づけというのは、非常に不生産な活動です。
もちろん、モノの置き場を確定し、道具としての即応性を上げ、生産作業の効率化を図るための方づけであれば、生産準備という位置づけになります。
一方で、世の大半の片づけ作業は、置く場所のない、使うあてのないモノの、置き場所を確保する作業で、これには何の生産性も存在しない。
時間と空間の浪費以外の何物でもない。
限られた貴重なリソースの両方を一気に、同時に、浪費するこの作業が、非生産といわずしてなんと言おうか。
本来、こうしたコトに2日間もかけるなんていう過ごし方は、生き方としておおいに間違っていると言っていい。
正確に言えば、モノがあるコトではなく、モノが多すぎるコトが不幸を生む。
モノが多すぎることは不幸だ。
本来、必要のないモノが、自分の占有スペースに存在コトは、人生の不幸だ。
なぜ、わざわざ、カネを払ってまで、不幸の元になるものを貯めこむのか。
たとえ、自分で買ったモノでなく、他から頂いたモノであっても、その人に対してそれ相応のお返しのモノを送っているであろうコトを思えば、買ったも同然である。
カネを払って不幸を買ってくる不幸とは何ぞや。
モノが増える大きな要因がカネにあることは疑う余地がない。
カネがあるから、モノを買える。
カネがたくさんあるから、モノをたくさん買える。
モノを置く場所を確保するにも、カネが要る。
たくさんカネがありさえすれば、モノはいくらでも買えるし、置いて置ける。
落ち着いて考えてみると、なんとも不幸な堂々巡りにカネを使ってるものだと思う。
だからと言って、カネの存在しない世界が理想だとは思わないが、知らずのうちに、カネとモノにずいぶん振り回されているものだと思う。
ここらで、少し考える余裕を持ちたい。
カネを払って、手に入れたモノが、手元で増えていくことは罪ではない。
当たり前の話だが、犯罪ではない。
ただ、本当に罪ではないかどうかは、ちょっと疑わしい。
人間社会に存在するモノは、基本的に人に益するために存在するはず。
そのために作られ、そのために運ばれ、そのために売られ、そのために自分の手元にやってくる。
ところがどうだ。
自分の手元にある、そのモノはろくに使われもせず。
片づけのための時間と空間を浪費するのみ。
さらに、売る人の時間と空間も浪費し。
さらに、運ぶ人の時間と空間も浪費し。
さらに、作る人の時間と空間も浪費し。
多くの人の、多くの時間と空間を浪費し、人に益しない。
このモノを手に入れる為に要された時間と空間に見合った益を生み出せない。
こう整理してみると、犯罪ではないが、罪ではないと正面から断言できるだけの論拠はどこにも無いように思える。
だからと言って、どーだという結論が出るわけではない。
モノを手に入れるコト自体が罪だと言いたいわけでもない。
ただ、バランスを欠いたカネの使い方は、間違いなく、人を不幸にする…というコトは覚えておかないといけないんだと思う。
モノがある幸福と、モノがありすぎる不幸。
表裏一体の二つをバランスさせることは、思っている以上に難しいと感じる。
網戸の片づけも終わり、布団の類も引っ張り出し、よーやく一段落。
ちょーっと腰にきてる感じなので、もう残りの連休はゆっくりと休みましょう。
もう今期は乗れないであろう自転車2台を部屋に運び込み、小屋にローラー台のスペースを確保。
この2台も、いろいろ手を入れる必要もあるので、冬の間にじっくりやっちゃいましょう。
片づけに時間を取るという不生産
片づけというのは、非常に不生産な活動です。
もちろん、モノの置き場を確定し、道具としての即応性を上げ、生産作業の効率化を図るための方づけであれば、生産準備という位置づけになります。
一方で、世の大半の片づけ作業は、置く場所のない、使うあてのないモノの、置き場所を確保する作業で、これには何の生産性も存在しない。
時間と空間の浪費以外の何物でもない。
限られた貴重なリソースの両方を一気に、同時に、浪費するこの作業が、非生産といわずしてなんと言おうか。
本来、こうしたコトに2日間もかけるなんていう過ごし方は、生き方としておおいに間違っていると言っていい。
モノがあるコトは不幸なコト
正確に言えば、モノがあるコトではなく、モノが多すぎるコトが不幸を生む。
モノが多すぎることは不幸だ。
本来、必要のないモノが、自分の占有スペースに存在コトは、人生の不幸だ。
なぜ、わざわざ、カネを払ってまで、不幸の元になるものを貯めこむのか。
たとえ、自分で買ったモノでなく、他から頂いたモノであっても、その人に対してそれ相応のお返しのモノを送っているであろうコトを思えば、買ったも同然である。
カネを払って不幸を買ってくる不幸とは何ぞや。
カネとモノ
モノが増える大きな要因がカネにあることは疑う余地がない。
カネがあるから、モノを買える。
カネがたくさんあるから、モノをたくさん買える。
モノを置く場所を確保するにも、カネが要る。
たくさんカネがありさえすれば、モノはいくらでも買えるし、置いて置ける。
落ち着いて考えてみると、なんとも不幸な堂々巡りにカネを使ってるものだと思う。
だからと言って、カネの存在しない世界が理想だとは思わないが、知らずのうちに、カネとモノにずいぶん振り回されているものだと思う。
ここらで、少し考える余裕を持ちたい。
モノを手に入れる罪
カネを払って、手に入れたモノが、手元で増えていくことは罪ではない。
当たり前の話だが、犯罪ではない。
ただ、本当に罪ではないかどうかは、ちょっと疑わしい。
人間社会に存在するモノは、基本的に人に益するために存在するはず。
そのために作られ、そのために運ばれ、そのために売られ、そのために自分の手元にやってくる。
ところがどうだ。
自分の手元にある、そのモノはろくに使われもせず。
片づけのための時間と空間を浪費するのみ。
さらに、売る人の時間と空間も浪費し。
さらに、運ぶ人の時間と空間も浪費し。
さらに、作る人の時間と空間も浪費し。
多くの人の、多くの時間と空間を浪費し、人に益しない。
このモノを手に入れる為に要された時間と空間に見合った益を生み出せない。
こう整理してみると、犯罪ではないが、罪ではないと正面から断言できるだけの論拠はどこにも無いように思える。
バランスを欠くカネ
だからと言って、どーだという結論が出るわけではない。
モノを手に入れるコト自体が罪だと言いたいわけでもない。
ただ、バランスを欠いたカネの使い方は、間違いなく、人を不幸にする…というコトは覚えておかないといけないんだと思う。
モノがある幸福と、モノがありすぎる不幸。
表裏一体の二つをバランスさせることは、思っている以上に難しいと感じる。
コメント