そりゃ当たり前でしょ、という方もいらっしゃるでしょうが、案外と田舎には何もないし、誰もいないというイメージが定着し始めてる気がします。

そりゃ、もう30年も、50年もしたら男鹿半島もヒトが住んでるかどうかあやしいところですが、まだ3.1万人くらいいるようです。

正直、主だった産業もなく、他所からヒトを呼び込めるのは唯一観光のみというのが、現在の男鹿半島の正直なところです。
その観光客も年々減り続けて…なんて話をするときりがないので、このへんにします。

別に「何もない」ことを悲観する必要はまったくない訳で。
何か必要だと思うなら、造ればいい。
何か揃えなきゃならないのなら、買ってくればいい。
「ない」こと自体を問題のように考える必要はぜんぜんない。

問題なのは「誰もいない」ことのほう。

実際のところ、これから他所からヒトを呼び込もうと思ったら、頼りになるのは風景でも、食事でも、歴史でも、観光施設でもありません。
ヒトです。
それも、スタッフのレベルが高いとかそういう全体の評価としてのお話ではなくて、男鹿半島の、XXXにいる、○○○さんという、一人ひとりの顔が見えるレベルでのお話。

今までの観光で評価の対象になってきた風景や、食事や、歴史や、施設というのは、今や他所にもいくらでもあるのが現実です。
そこで、どんなに競ったこところで所詮はどんぐりの背比べ。
一度は来るかもしれませんが、次に来てくれることはもうないでしょう。

この人に会いたい。
あの人とまた話がしたい。
機会があれば一緒に行動したい。

そうした人が、人に対してもう想いというのは、当然ながら何度でも男鹿半島に行きたいと思わせる、大きな動機になります。
もし、そう思わせる人が、男鹿半島の中に誰もいなければ、まさに「誰もいない」という憂慮すべき状況だといえます。

ですが、自分が知っているだけでも、この人にだったらまた会いに来たいなと思わせる人が何人もいます。
そうした、外から顔と名前を覚えてもらえる人が増えていくことこそ、男鹿半島に人が住み続ける上で大事なことだと思っています。

それは、観光という分野だけに限らず、農業、漁業、工場、公務員などなど、男鹿半島に住むヒト、男鹿半島で働く人、男鹿半島に学ぶヒトなど、男鹿半島に関わって暮らすすべてのヒトにとって言えることです。

「誰もいない」というのは、人口が0という意味ではないです。
会いに行きたくなるようなヒトが、これからどんどん増えていかなければ、男鹿半島に未来はないというコト。
自分は、ヒトに会いに来てもらえるようないいヒトではないですが、来てくれたヒトと一緒に自転車に乗って、案内するぐらいのコトはできますので、そうした今自分にできるコトを大事に育てていきたいと考えてます。

今日のところはここまで。
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