日本の教育だと、高校からは将来の進路によって理系と文系という分け方をするよう。
実際には、中学の段階で、自分の得意科目とかから、自分は理系だな…私は文系…みたいな進路の見通しをつけてるんじゃないかっていう気がする。

正直、これはものすごく良くないと思う。

こんな、子供の段階で、どっちかに偏るのは非常にマズイ。
一部の飛び抜けた才能の持ち主(将来ノーベル賞を取るとか、文壇で活躍するとか)を除けば、こんなにバランスの悪いことはない。

偏重する弊害


こうした分け方に子供の頃から馴染んでることは、思考の中に無意識の壁を作る。

自分は理系だから、科学的根拠には関心があるけど、倫理的な問題には関わりたくない…とか。
私は文系だから、科学的根拠はともかく、倫理的にこうするべきだ…とか。

判断基準の中に、理系であること、文系であることが、無意識的に刷り込まれていると感じることがままある。

実際、理系の人間の判断基準は科学的根拠を重んじるだろうし、それを判断するにたる科学的な知識やリテラシーが豊富だ。
その反面、人の感情を学問的に解析したり、倫理的思考に関して熟考した経験に乏しいのも事実。

文系なら、その逆。

お互いに、どちらかに専門的な知識と経験を持つが故に、一方に偏った判断をしがちだ。

真ん中の落とし所について、お互いに知識が乏しいために、話し合いをしてもうまく話がまとまらない。

まとめられない。

話が先に進まない。

こんなコトが、日本のあらゆる場面で起きてる気がする。

偏った議論による停滞


自分一人ですべてを進められるような状況であれば、自分の思う通りに物事を進めてかまわない。
文系も理系も、どちらに、どれだけ偏ったって、全く問題ない。

問題は、いろんな人間が関わっている状況で、どのように現状を認識し、どのように話をまとめて、どのように進めていくかを、みんなで話し合うとき。

ここで往々にして話が噛み合わない要因のひとつには、間違いなく上記のような基礎知識や認識の偏重がある。
それぞれが、それぞれ文とか科とかに偏りすぎてる。

一方は科学的な根拠に囚われて思い切った判断が出来なかったり、一方は倫理的判断を優先して現実味の薄い話に終止したり。

こんな状況に陥ると、もう話し合うのも面倒になるのは仕方が無い。

お互いに、落とし所を模索する経験に乏しく、どうしてもありきたりの結論にいきがち。
あれだけ話し合ったのに、こんな結論?…というのは、次に向かうモチベーションを著しくそぐ。

これでは先に進めない。

バランス感覚


対応策はひとつ。
バランス感覚を身につける…それ以外には無い。

科学的根拠を重視する人であっても、現場での感覚や、相手の感情的な話し方に対して、一定の理解をすることが必要。
倫理観を重視する人であっても、科学的論拠から大きくはずれた感情を、自ら省みる自視感が必要。

科学的な見方と、倫理的な見方が一人の人間の中でバランスしてないと、なかなか相手の話の本質が見えてこない。

相手の話が見えなければ、自分の意見との違いも認識できないだろうし、それではお互いを尊重した結論などはるか遠くだ。

これは「相手の話をよく聞く」というのとも別。

自分の意見を一旦カッコの中に閉じ込めて、相手の話の真意を探る。
理系とか、文系とか、科学とか、倫理とか、自分の中にある無意識の壁すらも取り払った上で、相手の話の流れを読み解いて、真意を汲む努力が必要だ。

これは、けっこう骨の折れる作業だ。

でも、やらないと、みんなで先には進めない。

根は深いんですが


実際、この問題…根が深いです。

ことは子供時代の教育から始まり、社会に出ても今の仕事は分業専門化されているので、自分と他のジャンルの人と関わることが極端に少ない。

同業者と顧客、あとは家族ぐらいとしか話したことがない人が、他のジャンルの人と上手く関われないのは、ある意味仕方がない。
今の社会は大半の人がそうだろうし。

ただ、これを解決しないと、話し合いのできない集団が、話し合いのできなまま社会を疲弊させていくっていう、今の状況を加速しかねない。

自分はバランスよく話せてるってわけじゃないけど、なるべく落とし所を見据えた、実のある話し方が出来るよう、いろいろ頑張っていきたいものではある。
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット