「まちづくり」という言葉に感じてた違和感…ちょっとだけ整理がついた感じ。

そもそも、まちは作るものか?

作られるものなんじゃないか?

そんな単純なコトに気が付いて、いろいろと腑に落ちたので書いて置く。

「まちづくり」は延命処置


つまりは、国だの行政だのがやってるのは、ただの延命処置であって、「まちづくり」なんていう名目で、特定の人間が恣意的に行うアクションに、意味なんか無い…と。

だいたいが、まちが出来るっていうのは、そこに住むことにメリットがあるからこそ、集まって、まちを形成していくのであって。
集まってることにメリットが無いのなら、だんだんと離れていくのは当たり前。

農村、漁村であれば天然資源が豊富だったからだし、港町であれば交易の要衝による流通産業が栄えた。

城下町であれば、商工業の集積地で、同時にそこにサービスの享受者が存在し、現在の都市の元になった。

そこに集まって住むことによって、それぞれの産業が発展、加速していくからこそ、みんな集まる。

そーゆーのも無しに行政予算つぎ込んだところで住む意味は無いわけだ。

それがまち。
作るもんじゃなくて、作られるもの。

大自然以上に、自然な成り立ちで栄枯盛衰を繰り返してるわけだ。

産業なき「まちづくり」


産業の枯れたまちなんて、早々に衰退させるのが一番良いこと。

無駄に行政予算つぎ込んだところで、延命処置でしかない。

それどころか、本当なら、新しい産業のもと、新しいまちが作られる自然の摂理を阻害してる可能性の方が高い。

「まちづくり」が、本来の「まちつくられ」を阻害してるとすれば、これ以上に皮肉なことはない。

自分たちが生き延びることで、次世代を殺し続ける…生物としてはこんな矛盾した行動もない。

弁護する余地があるとすれば、かつては産業の移り変わるスピードがゆっくりだったのに対して、今は急激に産業が変わっていく。
それに対応できずに生きてきてしまったことが、新しい「まりつくられ」を潰してきたのかもしれない。

これからの「まちつくられ」


今は、「まちづくり」を叫んで、新しいまちの誕生を拒んできた世代が、もうすぐ現役を去る時代。

これからは「まちつくられ」によるまちを考えていかないといけない。
いや、新しい産業による、新しいまちなんだから、いわば当たり前のまちだ。

ただし、これからのまちは、現代社会および未来社会に適応してないといけない。
そうしないと、また衰退しはじめると「まちづくり」を叫びかねない。

かつてと違って、産業の移り変わりが激しいことは織り込み済みのまちが必要。
逆に言えば、いつ衰退しても困らないまち。
誰かから与えられていたものを、急にとりあげらえても困らないまち。

正直、これは相当に難易度は高い。

今まで人類が作ってきたまちに比べても、まちver.2もしくはver.5とか10とかぐらい高レベルの難易度。
でも、そうならないとやばい。

そうでなければ、超巨大都市だけを残して、あとはスラムだけ…っていう姿が未来の日本になりかねない。
まぁ、それでもしたたかに生き延びる目算はありますが。

地方が生き残るために必要なのは「まちづくり」ではなくて「まちつくられ」だと。
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット