「○○は違えど、××の想いは皆同じ」という取りまとめ方をするのをよく見かけるけど、これって部外者の言い方だと感じる。

個々の胸の内には、それぞれの想いがあると思う。
その中の、共通部分だけを取り出して、同じ想いであるという言い方は、少し浅い。

特に、その共通部分だけが大事なように語ってしまっては、個々の想いの深い部分を軽く扱うことになる。
それはやっちゃいけない。

もっと個々の想いの深い部分にまで掘り下げなければ、そのつながりの本質的な部分は見えてこない。
表だって動いている内容と、個々の想いは別であったとしても、個の想いの部分がエネルギー源になってることは間違いないのだから。

想いが違うからこそ面白い


実際のところ、個々の想い、願い、希望、願望、妄想、未来予想図、目標、目的、生き方、ライフスタイル、ライフワークバランス、生涯年収、自給率、などなどなど、それぞれみーんなバラバラである。

それぞれの別の想いを持った人間が、ある目的を持って集まるに当たって、その活動の内容が、その目的に限定されるかのような話は、いかにもチープだ。

そこからは、もっと多様な活動に発展していい。
というか発展しなけりゃ意味が無い。

そこでは、誰か特定の人の想いが重点的に取り扱われるコトもありだ。
というか、その方がずっといい。

もちろん、そこでは、その想いを持つヒトが中心的な役割を持つことが望まれるだろうし、そこに共感する人間が手を貸すような形になるはず。

中心になったヒトの深い想いがあるから、活動全体にわたって、深いところまで立ち入った、より実践的な活動にまで発展していける可能性が高い。
どこかから借りてきたお題目に従って、うわべだけなぞるような活動とはぜんぜん違う。

そういう深みがあるから味がある。
味があるから、関わる価値がある。

想いを持って、手を貸す


もちろん、その時に中心になったヒトの想いだけが正解というコトでは決して無い。
今回、たまたま、その人の想いを核にして動いただけで、次は別のヒトの想いを核にして動くこともありだ。

そうして、また別の活動においても深みのある動きができるようになる。

前に核になったヒトは、前回にみんなの力や気持ちを受け取っている以上、自分も相手の力になってあげたいという想いが生まれるだろうし、うわべだけ手伝うようなコトにはならない。

そうした相手に対する想いも、さらに仲間同士のつながりを確かなモノにしていく。
何も目的だけで繋がるというコトではないのだ。

これを一つの集まりでやるのか、別々の集まり同士で互いに手を貸しあうのか、そのあたりは多様な形があるんだろう。
どの形態が正解というコトもない。

ただ、個人的にはあまり手を広げると、とっちらかるのでほどほどぐらいが良さそう。

ようはお互い様


そーゆーコトである。

人それぞれ違うんだし、同じ想いをもってるはず…というような妙な縛りを課するのは、手を貸してくれるヒトに変なプレッシャーを与えるだけで、何もプラスには働かない。

「公共」とか「地域活性化」とか、そーした単語に惑わされて、個人の想いを活かさないような社会は息苦しい。

個の想いを、その場、その時、最大化するコトが一番重要なコト。
そうして、個々に育っていく面白い活動が、どんどん育っていくような社会こそ、生きてて面白い社会に思える。
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